建築家 大谷幸夫とは

ここでは、数多くの名建築を手掛けた建築・都市計画家の大谷幸夫を紹介。どのような建築家だったのか、大谷の建築の魅力や代表作をまとめています。

大谷幸夫とは

大谷幸夫(おおたにさちお)は、複数の都市開発事業に携わりながら建築家としての活動も行っていた建築・都市計画家です。


日本の近代建築の礎を築いた丹下健三に師事し、彼の右腕として広島平和記念資料館や旧東京都庁舎など数々のプロジェクトに携わっていた経歴もあり。1960年に独立し、国立京都国際会館や千葉市美術館など都市計画家的な視点で設計された名建築を多数残しています。


初期の大谷は緻密な論理構成で大規模な建築を統合的に設計していましたが、晩年は細部に装飾的なモチーフを凝らした作風へと変化していきました。


東京大学都市工学科や千葉大学建築学科で長きに渡り後進の育成を行なっていた時期もあり、教育者としての一面も。そのほか、文筆家として複数の建築書籍も執筆しており、建築家・都市計画家の枠を超えてマルチな活動を行っていた人物です。

大谷幸夫
建築の魅力とは

大谷幸夫の建築には、どのような魅力があるのでしょうか。

力強いコンクリート表現

大谷の初期に見られたコンクリート打ち放し建築は、第二次世界大戦後の1950年代に世界中で流行した建築様式「ブルータリズム」の影響を受けているのが特徴です。非常に力強いコンクリート表現は迫力があり、魅力的で味のある建物に仕上がっています。

力強いコンクリート表現は独立後の大谷幸夫の作品に多く見られ、代表的な作品としては京都国際会議場や川崎市河原町高層公営住宅団地、金沢工業大学、東京都児童会館などがあり。なかでも金沢工業大学は日本建築学会賞を受賞しており、コンクリート打ち放し建築として評価の高い作品です。

自然との調和

大谷は「住宅は中庭のあるのが基本」というポリシーを持っていたほか、「建築は地域の自然と地域社会との調和の上にあるべき」という考えを持っており、国立京都国際会館の設計でもそのこだわりが投影されています。

国立京都国際会館の設計では一般的なビルなどで見られる垂直なラインは使われておらず、台形と逆台形を組み合わせた独創的なデザインを採用することで、周囲の山並みや自然との調和を実現。大谷の初期のスケッチでは、自然景観のなかで呼吸する会議場が構想されていました。

建築家 大谷幸夫の
代表作

大谷幸夫が手掛けた建築から、代表作とも言える建築物を紹介します。

国立京都国際会館

「国際会議のための建築を日本にも造ろう」という構想のもと、1966年に開館した日本で最初の国立会議場です。

日本の伝統的建築様式である「合掌造り」を思わせるような台形型の外観は、周辺環境への圧迫感を緩和させながら、山々の穏やかな曲線との調和を図ったもの。海外からの来館者に日本文化を感じてもらいたいと、借景や数寄屋造、棚田などの日本文化の要素が数多く取り入れられています。

モダニズム建築の代表作としても評価が高く、近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織DOCOMOMO Japanによる「日本におけるモダン・ムーブメントの建築100選」にも選ばれている作品です。

千葉市美術館

1927年に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店の建物を、現代建築の建物が包み込むように設計された作品。戦前の歴史主義建築と現代建築が見事に融合した建物は、大谷の建築家としての作風の幅の広さや実力が伺えます。

1960年代以降の高度成長期の日本では、都市開発において文化財保護と現代生活との両立が建築界で大きな課題となっていました。大谷もかねてから過去の遺産をないがしろにして都市が発展していく様子を悲観しており、古い建物の保存と都市化の両立を長らく模索していました。

それを見事に実現したのが、新旧の建築様式を融合させた千葉市美術館というわけです。

川崎市河原町高層住宅団地

1972~1975年にかけて建てられた大型団地で、13棟の建物で構成されています。13棟すべてを大谷研究室が設計しており、都市計画家であり建築家でもある大谷の本領が発揮された作品です。

団地というとマッチ箱のような箱型建築が整然と並んだ建物を思い浮かべますが、川崎市河原町高層住宅団地は逆Y字型の形状の建物が紛れ込んでいるのが特徴。大谷が逆Y字型を採用した理由は、下層部分の日当たりを十分に確保するためだったとのこと。

また、従来の密集した高層団地だと、子どもの遊び場として使われる建物の間の空間が圧迫感に満ちていたことから、大谷は逆Y字型の建物の内部に吹き抜けのホール的空間を作成。これにより、天気を気にせずのびのびと遊べる空間が生まれています。

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